『チェンソーマン』という作品を読んでいると、ふとした瞬間に強烈な違和感を覚えることはありませんか?物語の舞台は1997年。私たちが知っている1997年とは、似ているようで決定的に何かが違う。
なぜ藤本タツキ先生は、あえて「現代」ではなく「1997年」という特定の時代を選んだのか。そして、作中で平然と存在し続けている「ソ連」の謎。今回は、この1997年という設定に隠された意味や、史実との乖離から見える絶望的な世界観について、ディープに考察していきます。
1997年という時代設定が物語に与える「不穏なリアリティ」
まず、第1部の終盤で明確に提示された「1997年9月12日」という日付。この数字を見た瞬間、鳥肌が立った読者も多いはずです。
なぜ現代(2020年代)ではないのか。その最大の理由は、情報の「不便さ」にあります。1997年といえば、Windows 95が発売されて間もなく、携帯電話(ガラケー)がようやく普及し始めた時期。スマートフォンもSNSもありません。
もし舞台が現代なら、悪魔の出現は瞬時にSNSで拡散され、YouTubeでライブ配信され、Googleマップで「銃の悪魔」の現在地が特定されてしまうでしょう。しかし、1997年という設定なら、情報はテレビや新聞、そして政府の検閲によってコントロール可能です。
この「情報の遮断」こそが、読者に正体不明の恐怖を与え、マキマというキャラクターの底知れなさを引き立てる最高のスパイスになっているのです。
ソ連が崩壊していない?書き換えられた歴史の謎
『チェンソーマン』の世界で最も衝撃的な設定の一つが、「ソビエト連邦(ソ連)が存続している」という点です。
現実の歴史では、ソ連は1991年に崩壊しました。しかし、作中の1997年では依然として強大な国家として君臨し、レゼのような「国家の兵器」を育成しています。この歴史の分岐点はどこにあるのでしょうか。
その答えは、チェンソーマン(ポチタ)が持つ「概念を消し去る力」にあります。
マキマの口から語られた衝撃の事実。かつてこの世界には「ナチス」や「第二次世界大戦」、さらには「核兵器」という概念が存在していました。しかし、チェンソーマンがそれらの名前を持つ悪魔を食べてしまったため、過去から現在に至るまで、人々の記憶からも歴史からもその存在が消滅してしまったのです。
核兵器が存在しない世界。それは、現実の冷戦構造とは全く異なる軍事バランスを意味します。核による抑止力が効かない代わりに、各国は「銃の悪魔の肉片」を保有することで軍事力を競っています。この「歪んだ歴史」の結果として、ソ連は崩壊を免れ、1997年になっても超大国として存在し続けていると考えられるのです。
銃の悪魔がもたらした「1997年9月12日」の絶望
1997年という設定が最も効果的に、そして残酷に機能したのが「銃の悪魔」の上陸シーンです。
9月12日、アメリカ大統領との契約によって呼び出された銃の悪魔。そこから数分間の描写は、漫画史に残る圧倒的な絶望でした。犠牲者の名前が延々と連なる演出は、当時の読者に計り知れない衝撃を与えました。
ここで注目したいのが、銃の悪魔が初めて出現したのが「13年前(1984年)」であるという設定です。1984年といえば、ジョージ・オーウェルのディストピア小説を彷彿とさせますが、この年から人類は「悪魔という絶対的な恐怖」に支配されることになりました。
1997年の惨劇は、そんな積み重ねられた恐怖が爆発した瞬間でもあります。アナログな通信手段しかない時代において、空から降り注ぐ死の弾丸。逃げる術もなく、何が起きたかも分からぬまま消えていく命。この時代設定だからこそ、私たちはその「無慈悲な速さ」に恐怖するのです。
1990年代特有の「終末論」と作品の親和性
1997年という年は、現実世界でもどこかソワソワした空気が漂っていました。1999年に世界が滅びるという「ノストラダムスの大予言」が真実味を持って語られ、世紀末の退廃的な雰囲気が街を包んでいた時代です。
『チェンソーマン』の第2部では、まさにこの「1999年の終末」が物語の核として描かれています。死の悪魔の降臨と、予言された人類の終わり。
藤本タツキ先生は、当時の人々が抱いていた「得体の知れない不安」を、悪魔という形にして具現化しているようにも見えます。デンジたちが履いているスニーカーや、街並みに並ぶ公衆電話。そうした90年代のディテールが、非日常である悪魔の存在に、奇妙な説得力を与えています。
ちなみに、劇中のファッションにこだわりを感じる方は、当時のストリート文化を反映したスニーカーなどをチェックしてみると、より作品の世界観を肌で感じられるかもしれません。
チェンソーマンが「過去」を食べた影響を考える
チェンソーマンが食べたのは「ナチス」や「核兵器」だけではありません。「エイズ」や「比阿夫羅(ビアフラ)の餓死」など、人類を苦しめた様々な事象も消し去っています。
一見すると、それは人類にとって救いのように思えます。病も戦争の惨禍も消えた。しかし、その代償として歴史は整合性を失い、1997年という年が、私たちの知る姿とは似て非なる「歪な静寂」に包まれているのです。
第2部で登場する三鷹アサの日常も、そんな歪んだ歴史の上に成り立っています。戦争という概念が希薄になった世界で、それでもなお「戦争の悪魔」が復活しようとする皮肉。過去が消されたことで、人類は教訓を失い、より根源的な恐怖に直面しているのかもしれません。
日常の何気ないシーン、例えば学校の教室でデンジが読んでいるマンガの描写一つをとっても、そこには現代とは違う「90年代の空気」が丁寧に織り込まれています。
まとめ:チェンソーマンの舞台はなぜ1997年?ソ連存続の謎と史実との違いを徹底考察!
ここまで見てきたように、『チェンソーマン』における1997年という設定は、単なる懐古趣味ではありません。
それは、「チェンソーマンによって過去が喰われ、歴史が改変された結果」として必然的に導き出された年代なのです。ソ連が存続し、核兵器が存在せず、しかし銃の恐怖に怯える1997年。この特異な舞台設定があるからこそ、私たちはデンジたちの物語を「もしもの歴史」として、これほどまでに没入して読むことができるのでしょう。
第2部の舞台はいよいよ1999年、予言の年へと突入していきます。1997年から始まったこの悪夢のような、けれど愛おしい物語が、どのような結末を迎えるのか。
当時の空気感をもっと詳しく知りたい方は、90年代の文化をまとめた雑誌などを手に取ってみるのも面白いかもしれません。きっと、藤本タツキ先生が描こうとしている「あの頃の絶望と希望」の解像度が、より一層高まるはずです。
物語の終焉に向かって、私たちはただ、1990年代という名の幻想を駆け抜けるデンジたちの姿を見守ることしかできません。

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